真宗大谷派廣讃寺

法話コーナー

ぜひお聞きください

「南無阿弥陀仏」はご苦労を窺(うかが)い知るはたらき

浄土真宗において一番大事なことは念仏することといえるでしょう。それは、南無阿弥陀仏と称えることですが、何かの呪文のように思う人も少なからずおられるでしょう。南無阿弥陀仏と称えることを、源信(げんしん)僧都(そうず)は「唯称(ゆいしょう)弥陀(みだ)」、それを親鸞聖人が『正信偈』の7字の句作りの中で「唯称仏(ゆいしょうぶつ)」という言葉に略して教えてくださっているもの。また、蓮如上人に至っては『御文』の中で繰り返し「称名(しょうみょう)念仏(ねんぶつ)」と、その肝要なことを教えてくださっています。
 その南無阿弥陀仏といえば、阿弥陀仏に南無する――阿弥陀如来に頭が下がるという意味であるものの、その阿弥陀如来に頭が下がるどころか、できれば何者にも頭を下げたくないというのが私たち人間の根性ではないでしょうか。あるいは、頭を下げることはいいけど、その阿弥陀如来が遠い存在で頭を下げる感覚がよくわからないという声もあるかもしれません。
そこで、「南無阿弥陀仏」を別の言い方で示すと「名号」といいます。その名号について『正像末和讃』の最後に以下の言葉が所収されています。

名の字は、因位のときのなを名という。号の字は、果位のときのなを号という。
(『真宗聖典』510頁)

因(いん)位(に)というと法蔵菩薩、果(か)位(い)といえば阿弥陀仏。法蔵菩薩がご修行時代にすべてのものが救われるこの上ない誓いを建てて、自ら阿弥陀如来となって人びとを照らし続けているという一人の御苦労がある。そのことを蓮如上人は御文に「弥陀如来の五劫・兆載(ちょうさい)永劫(ようごう)の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまうことの、ありがたさ、とうとさをおもえば」との言葉で教えてくださっています。前述したように、阿弥陀如来が遠い存在と感じるのであれば、まずは死者や先祖の生涯に思いを馳(は)せて、そのご苦労を知ろうとすることが、先人達が称えてきた南無阿弥陀仏のお心に叶(かな)うのではないでしょうか。苦労のない人などいませんし、功績の背景にも必ず苦労があります。そのご苦労を知ることによって、自身の苦労も、ひいては後世(こうせい)の苦労も明るい苦労となることを「南無阿弥陀仏」の六字に伝統されてきたのだと受け取りたいと思います。

2021-06-18