仏法聞き難し
三帰依文の冒頭、
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」
とある。この中で「仏法聞き難し」とはどんなことなのか。
人間として生まれ、お寺に行き仏の教えを聞く機会はなかなかないものだよ。と、こんな感じで軽く考えてはいないだろうか。
仏法が聞こえるか聞こえないかは、こちら側の問題である。
例えば、「今なんとか幸せにやっておりますよ」なんていう心境の時に仏の教えなど響くことはない。
「本当に困った。もう何ともならない。絶体絶命だ!」という時に仏の教えが受容されるのではないだろうか。
『受容』という言葉ではなんだかしっくりこないが、【受容体】という言葉の意味を調べていたら、こんな感じではと思い用いた。
【受容体】細胞表面にあり、細胞外の物質や光を選択的に受容する物質の総称。光受容体・ホルモン受容体・抗原受容体など。レセプター。
我々の心は、仏法を受容することを拒絶しているのではなかろうか。
仏法を受容することがいかに難しいか?
例えば「仏に身をまかせましょう」という言葉をきけば、そんなのはいやだと、たやすく首を横に振ってしまうのです。