なつかしさ
門徒さんと話をしていると昔の話が圧倒的に多いことに気づく。
年輩の門徒さんがまだ娘さんだった頃の話、または戦争中の話、昔の稲葉地の話。どれも50年はたっていることを数年前のことのように話す感じか。
私も40代後半になりようやくその気持ちが少しだけわかるようになってきた。
もうとても若いとは言われない年齢となり、若いということがどんなことなのかが少し見えてきた。
無鉄砲、感受性も豊か、再生力もあり、頭脳も明晰、純粋。若いなりに悩みもあるに決まっているが。今のようなドロッと重い悩みではない。歳をへればへるほど何とも空虚な悩みも加わる。加齢とともにそれらの悩みや空虚さで幸せがあせてみえる。
歳をとって家を引っ越しすると頭が環境についていけずに認知症になりやすいというが、若い時には環境の変化もまた「新しい変化」としてワクワクして受け入れることもできた。
そんな感動も歳とともになくなり、感動をしていた若い頃をなつかしむのが関の山。これが「老」の苦しみの表れだと思う。
もう誰もが若い頃のように感動することは二度とはないであろう。
しかし死ぬまでは昔の若き日をなつかしみながら生きていかなければならない。寿命が長くなるというのはその時間が長くなるということともいえる。
ノスタルジーと言われるが、そんなものにすがって生きるしかないというのも、これからの自分は何なんだということになる。