真宗大谷派廣讃寺

法話コーナー

ぜひお聞きください

なつかしさ

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門徒さんと話をしていると昔の話が圧倒的に多いことに気づく。
年輩の門徒さんがまだ娘さんだった頃の話、または戦争中の話、昔の稲葉地の話。どれも50年はたっていることを数年前のことのように話す感じか。
私も40代後半になりようやくその気持ちが少しだけわかるようになってきた。
もうとても若いとは言われない年齢となり、若いということがどんなことなのかが少し見えてきた。
無鉄砲、感受性も豊か、再生力もあり、頭脳も明晰、純粋。若いなりに悩みもあるに決まっているが。今のようなドロッと重い悩みではない。歳をへればへるほど何とも空虚な悩みも加わる。加齢とともにそれらの悩みや空虚さで幸せがあせてみえる。
歳をとって家を引っ越しすると頭が環境についていけずに認知症になりやすいというが、若い時には環境の変化もまた「新しい変化」としてワクワクして受け入れることもできた。
そんな感動も歳とともになくなり、感動をしていた若い頃をなつかしむのが関の山。これが「老」の苦しみの表れだと思う。
もう誰もが若い頃のように感動することは二度とはないであろう。
しかし死ぬまでは昔の若き日をなつかしみながら生きていかなければならない。寿命が長くなるというのはその時間が長くなるということともいえる。
ノスタルジーと言われるが、そんなものにすがって生きるしかないというのも、これからの自分は何なんだということになる。

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2017-01-26

僧侶

私の思い描いている僧侶とは、
よく見聞きし冷静な人、人間関係もしっかりとし、仏道を歩む者として常に自覚のある人、そして誠実そうにみえる人だ。
しかし、私自身はそれに当てはまらないので本当に向いてないと思う瞬間がたびたびやってくる。その都度それをどうごまかしたらいいのかと考えるのだが、それでは解決にならないとわかるとまた恐ろしいほどの虚しさに襲われる。
親鸞のいう愚禿という重く深い自覚ではなく、軽いチャラチャラとした感覚なので話にならない。
僧侶の格好をしているだけ、それをし続けるというのもそんなにいいものではない。
「どんな仕事でも大変だ」という言葉で片付ければ簡単なんだが、それではもっと浅い。自分は何をしているのか?何のために?
いろんなお坊さんと交流するのだが、皆、何をするために僧侶になっているのかの理由探しをしているのだろうか。もちろん、食べていくためにこうするああするということもあるだろう。
僧侶というのは真面目に生活していれば普通に済んでいくものかと考えてしまう。抑圧みたいなものに耐えられなくなり全国ところどころでいろんな事件を起こすんだろうな、僧侶が。
周りのことに振り回されず、生きていくというのはどんなことなのかを、より真剣に考えるのが僧侶として大切なのかと。

2017-01-26