「不安」が呼び覚ます「生」の実感
昨今、新型コロナウイルスの猛威は留まるところを知らず、世界人類の生命に甚大な危機をもたらし、世の中は「不安」で溢れています。この危機的状況にあって仏教はどのように応えてくれるのか考えさせられます。当然のことながら、宗教や思想の分野でワクチンを作ることはできませんし、より一層、薬品研究や医療現場で感染リスクを抱えながらも身を削って働く方々に頭が下がります。生死無常の理とはいえ、すんなりと死を受け入れることができない私に、親鸞聖人が得度(出家)の際に詠んだとされる和歌がこれまで以上に響いてきました。
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは 『親鸞聖人絵詞伝』
≪明日も咲いているだろうと思っていた桜も、夜のうちに嵐が吹いて散ってしまうかもしれない≫
聖人が9歳の時、僧侶になるために比叡山の慈円を訪ねた。すでに夜が更けていたため「得度式は明日にしよう」と促された。聖人は「明日まで待てないから今すぐ得度したい」と申し出た。その時に詠んだ和歌とされます。自分の命を桜に喩え、明日には散ってしまうかもしれないという人間存在をはっきりと自覚した言葉、あるいは時機を逃さない態度など、9歳とは思えない和歌に讃嘆されることは良く知られるところです。その時の聖人の感情とは――。
日本古来、「言葉とも呼ぶことのできない呻(うめ)き」から和歌は始まったと聞き及びます。また、聖人が得度されたのは1181年、「養和の飢饉」という大飢饉が発生した年で、餓死する人は大変多く、社会全体が混乱していたといいます。つまり、ここでの和歌はまさに幼き聖人の「不安」から紡ぎだされたものであったに違いないと思うのです。
生に執着し、死を遠ざけて生活している私たちは、生きることの意味を見失っているともいえます。反対に、死が身近に迫り「不安」が募ることによって生きていることの実感ができます。「私はコロナにかからない」なんて楽観せず、「不安」に思う気持ちから目を背けず、一日一日を大切に生き、廣讃寺にて再会できますことを心から念じております。