真宗大谷派廣讃寺

法話コーナー

ぜひお聞きください

仏法聞き難し

三帰依文の冒頭、
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」
とある。この中で「仏法聞き難し」とはどんなことなのか。
人間として生まれ、お寺に行き仏の教えを聞く機会はなかなかないものだよ。と、こんな感じで軽く考えてはいないだろうか。
仏法が聞こえるか聞こえないかは、こちら側の問題である。
例えば、「今なんとか幸せにやっておりますよ」なんていう心境の時に仏の教えなど響くことはない。
「本当に困った。もう何ともならない。絶体絶命だ!」という時に仏の教えが受容されるのではないだろうか。
『受容』という言葉ではなんだかしっくりこないが、【受容体】という言葉の意味を調べていたら、こんな感じではと思い用いた。
【受容体】細胞表面にあり、細胞外の物質や光を選択的に受容する物質の総称。光受容体・ホルモン受容体・抗原受容体など。レセプター。
我々の心は、仏法を受容することを拒絶しているのではなかろうか。
仏法を受容することがいかに難しいか?
例えば「仏に身をまかせましょう」という言葉をきけば、そんなのはいやだと、たやすく首を横に振ってしまうのです。

2013-05-22

他者と自己

「他人には気を遣いなさい」
という訓告。
他者にどのように接したらいいのか。それは心理学の分野になってくると思う。道徳・倫理ではなく。
他者の心を読む。まずはこのこと自体がたいへん難しい。
たとえば、疲れた人の肩をもんでみる。
気持ちいいと思う人がほとんどだと思うが、くすぐったいからやめてくれ、という人もいる。
それぞれ対処法が異なるというわけだ。
他者と自己との間の隔たりは大きい。
他者に気を遣うということは、その隔たりを小さくするものではない。他者に気を遣おうと感じた瞬間、自己と他者の間の溝は深まる。
顔色を窺(うかが)うという言葉がある。
他者がどのように考えているか、感じているのか、読むことである。
己と他者の駆け引き。意外と緊迫した駆け引きかもしれない。
そんな中で思い浮かぶのが
「親しき仲にも礼儀あり」
である。つまりは自己と他者の間の隔たりは埋まることがないということだ。
そこで、絶対的な孤独存在に在ることに気づかされ、孤立していくのだ。
『仲よしこよし』なんてものは偽であり、もしそのような親密な関係になったとしても駆け引きなしでは破綻する。
己の殻、他者との壁。
それを感じると、自分がこの世界でたった一人で生きているような感覚にとらわれる。
同朋だの同行だのまったく感じることのできない世界こそがこの世界だと思う。

2012-08-16