真宗大谷派廣讃寺

廣讃寺の歴史

創建 永正年中
15041517年)
開基 西玄

松岡(福井県松岡市)の領主が信長の家臣となり、大坂城落城時、豊臣方について戦死した。(当寺には、表に「松岡右京之進霊」裏に「元和元年 卯五月四日 於大坂戦死」と書かれた位牌が残っている。元和元年は1615年)
そのときの乳のみ子を連れた乳母が郡上八幡へ落ちのび、金森公に育てられた。成人したあと名古屋へ出た。塩町で塩屋利兵衛と名乗り、「塩屋」という屋号で海送問屋を営み成功した。(本宅は塩町、倉庫は禰宜町)約300年頃前、それまで天台宗であった寺を買収し菩提寺兼別荘とした。 塩屋利兵衛は鍋田の寛延新田・港区の福田新田の開発にも力を入れた。福田新田の浄恩寺は当寺の二男長賢が創建である。
『徇行記』には「広讃寺界内三畝備前検除 本願寺宗 名古屋円通寺ニ属ス 同寺ノ末寺了通寺界内年貢地ナリ」「広讃寺書上帳ニ 当寺界内三畝御除地 此寺古天台宗ニテ善西坊ト云 十一代以前泰善代浄土真宗ニ改宗 今ノ寺号ニ改ム」と記されている。名古屋円通寺とは、昔、萱津にあった円通寺が清洲越えのとき名古屋城下、桜天神の迎え側へ移った。そのころは四方山円通寺珉光院と呼ばれていた。その後寺号が珉光寺と変わり昭和四十八年には名東区平和が丘へ移された。
廣讃寺本堂は昭和二十年五月に戦災にあい、戦災を免れた山門だけが今も境内に残っている。現在の本堂は昭和三十九年に建てられた。
稲葉地小学校のあたりに昔あった八幡宮は松岡八幡宮と呼ばれて明治まで廣讃寺のものであった。

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