土筆(つくし)
雑草を抜いていると簡単にすっと抜ける草もあれば、どんなに力を入れても抜けない草、すぐに茎が折れてしまい根っこが残ってしまう草もあります。いったんきれいにしたと思っても、残った根からまた新しく芽が出てきてまた草まみれになります。
普段生活をしていると必ず何かしらの困難なことが起こります。そしてそれをどのようなことをしたら解決できるかを考え行動します。解決できたならばすぐに抜ける雑草のようにそれで一件落着でおしまいとなります。解決出来なかったら根が残る草のように悩みとして残ります。悩みを解決しようとさらに行動します。しかしいろいろなことを試みても解決しないとなるとその悩みがいかに深いところからきている悩みであるか気づきます。
春に顔を出す土筆。土筆はかわいらしく食べるとおいしいですが、そのあとに出てくるスギナの葉(正確には栄養茎)を絶やすのが大変で、ある門徒さんは畑にスギナが生えたので2メートルほどスコップで掘って絶やそうとしましたが、切れたスギナの根が残ってしまい、また生えてきたそうです。
我々の悩みは煩悩の仕業だといわれています。その煩悩がこのスギナの根のように私たちにからみついているために一生悩み続けなければなりません。
しかし土が死んでいると草は生えません。土が生きているからこそ雑草は生えるのです。

浄土真宗において一番大事なことは念仏することといえるでしょう。それは、南無阿弥陀仏と称えることですが、何かの呪文のように思う人も少なからずおられるでしょう。南無阿弥陀仏と称えることを、源信(げんしん)僧都(そうず)は「唯称(ゆいしょう)弥陀(みだ)」、それを親鸞聖人が『正信偈』の7字の句作りの中で「唯称仏(ゆいしょうぶつ)」という言葉に略して教えてくださっているもの。また、蓮如上人に至っては『御文』の中で繰り返し「称名(しょうみょう)念仏(ねんぶつ)」と、その肝要なことを教えてくださっています。
昨今、新型コロナウイルスの猛威は留まるところを知らず、世界人類の生命に甚大な危機をもたらし、世の中は「不安」で溢れています。この危機的状況にあって仏教はどのように応えてくれるのか考えさせられます。当然のことながら、宗教や思想の分野でワクチンを作ることはできませんし、より一層、薬品研究や医療現場で感染リスクを抱えながらも身を削って働く方々に頭が下がります。生死無常の理とはいえ、すんなりと死を受け入れることができない私に、親鸞聖人が得度(出家)の際に詠んだとされる和歌がこれまで以上に響いてきました。
最近、人と話していて芸能人の話になると、その芸能人に、「さん」付けをする人が増えたように思う。芸能人だけでなく、有名人に対しても。
人生うまくいっていると思っている時はほとんど考えないでしょう。イヤなことあれば何か考えるでしょう。悩むということは考えるということです。
朝、目覚め、「さて起きるか」から始まり、歯みがき、洗面、朝食を習慣どおりにこなし、午前中に行うことをして昼食をとり、昼への行動へと移る。いつの間にか夕方になり夜を迎える。夕飯を食べて、何かをしていると、いつの間にか寝る時間。また今日もこんな一日だった。そして寝る。
例えば、楽しい一泊旅行に行く前はウキウキします。旅行に行っている時より嬉しいくらいです。

私の思い描いている僧侶とは、