真宗大谷派廣讃寺

法話コーナー

ぜひお聞きください

土筆(つくし)

 雑草を抜いていると簡単にすっと抜ける草もあれば、どんなに力を入れても抜けない草、すぐに茎が折れてしまい根っこが残ってしまう草もあります。いったんきれいにしたと思っても、残った根からまた新しく芽が出てきてまた草まみれになります。
 普段生活をしていると必ず何かしらの困難なことが起こります。そしてそれをどのようなことをしたら解決できるかを考え行動します。解決できたならばすぐに抜ける雑草のようにそれで一件落着でおしまいとなります。解決出来なかったら根が残る草のように悩みとして残ります。悩みを解決しようとさらに行動します。しかしいろいろなことを試みても解決しないとなるとその悩みがいかに深いところからきている悩みであるか気づきます。
春に顔を出す土筆。土筆はかわいらしく食べるとおいしいですが、そのあとに出てくるスギナの葉(正確には栄養茎)を絶やすのが大変で、ある門徒さんは畑にスギナが生えたので2メートルほどスコップで掘って絶やそうとしましたが、切れたスギナの根が残ってしまい、また生えてきたそうです。
我々の悩みは煩悩の仕業だといわれています。その煩悩がこのスギナの根のように私たちにからみついているために一生悩み続けなければなりません。
しかし土が死んでいると草は生えません。土が生きているからこそ雑草は生えるのです。

2022-03-10

「南無阿弥陀仏」はご苦労を窺(うかが)い知るはたらき

浄土真宗において一番大事なことは念仏することといえるでしょう。それは、南無阿弥陀仏と称えることですが、何かの呪文のように思う人も少なからずおられるでしょう。南無阿弥陀仏と称えることを、源信(げんしん)僧都(そうず)は「唯称(ゆいしょう)弥陀(みだ)」、それを親鸞聖人が『正信偈』の7字の句作りの中で「唯称仏(ゆいしょうぶつ)」という言葉に略して教えてくださっているもの。また、蓮如上人に至っては『御文』の中で繰り返し「称名(しょうみょう)念仏(ねんぶつ)」と、その肝要なことを教えてくださっています。
 その南無阿弥陀仏といえば、阿弥陀仏に南無する――阿弥陀如来に頭が下がるという意味であるものの、その阿弥陀如来に頭が下がるどころか、できれば何者にも頭を下げたくないというのが私たち人間の根性ではないでしょうか。あるいは、頭を下げることはいいけど、その阿弥陀如来が遠い存在で頭を下げる感覚がよくわからないという声もあるかもしれません。
そこで、「南無阿弥陀仏」を別の言い方で示すと「名号」といいます。その名号について『正像末和讃』の最後に以下の言葉が所収されています。

名の字は、因位のときのなを名という。号の字は、果位のときのなを号という。
(『真宗聖典』510頁)

因(いん)位(に)というと法蔵菩薩、果(か)位(い)といえば阿弥陀仏。法蔵菩薩がご修行時代にすべてのものが救われるこの上ない誓いを建てて、自ら阿弥陀如来となって人びとを照らし続けているという一人の御苦労がある。そのことを蓮如上人は御文に「弥陀如来の五劫・兆載(ちょうさい)永劫(ようごう)の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまうことの、ありがたさ、とうとさをおもえば」との言葉で教えてくださっています。前述したように、阿弥陀如来が遠い存在と感じるのであれば、まずは死者や先祖の生涯に思いを馳(は)せて、そのご苦労を知ろうとすることが、先人達が称えてきた南無阿弥陀仏のお心に叶(かな)うのではないでしょうか。苦労のない人などいませんし、功績の背景にも必ず苦労があります。そのご苦労を知ることによって、自身の苦労も、ひいては後世(こうせい)の苦労も明るい苦労となることを「南無阿弥陀仏」の六字に伝統されてきたのだと受け取りたいと思います。

2021-06-18

「不安」が呼び覚ます「生」の実感

昨今、新型コロナウイルスの猛威は留まるところを知らず、世界人類の生命に甚大な危機をもたらし、世の中は「不安」で溢れています。この危機的状況にあって仏教はどのように応えてくれるのか考えさせられます。当然のことながら、宗教や思想の分野でワクチンを作ることはできませんし、より一層、薬品研究や医療現場で感染リスクを抱えながらも身を削って働く方々に頭が下がります。生死無常の理とはいえ、すんなりと死を受け入れることができない私に、親鸞聖人が得度(出家)の際に詠んだとされる和歌がこれまで以上に響いてきました。

 

明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは   『親鸞聖人絵詞伝』

≪明日も咲いているだろうと思っていた桜も、夜のうちに嵐が吹いて散ってしまうかもしれない≫

 

聖人が9歳の時、僧侶になるために比叡山の慈円を訪ねた。すでに夜が更けていたため「得度式は明日にしよう」と促された。聖人は「明日まで待てないから今すぐ得度したい」と申し出た。その時に詠んだ和歌とされます。自分の命を桜に喩え、明日には散ってしまうかもしれないという人間存在をはっきりと自覚した言葉、あるいは時機を逃さない態度など、9歳とは思えない和歌に讃嘆されることは良く知られるところです。その時の聖人の感情とは――。

日本古来、「言葉とも呼ぶことのできない呻(うめ)き」から和歌は始まったと聞き及びます。また、聖人が得度されたのは1181年、「養和の飢饉」という大飢饉が発生した年で、餓死する人は大変多く、社会全体が混乱していたといいます。つまり、ここでの和歌はまさに幼き聖人の「不安」から紡ぎだされたものであったに違いないと思うのです。

生に執着し、死を遠ざけて生活している私たちは、生きることの意味を見失っているともいえます。反対に、死が身近に迫り「不安」が募ることによって生きていることの実感ができます。「私はコロナにかからない」なんて楽観せず、「不安」に思う気持ちから目を背けず、一日一日を大切に生き、廣讃寺にて再会できますことを心から念じております。

2020-05-13

◯◯さん

最近、人と話していて芸能人の話になると、その芸能人に、「さん」付けをする人が増えたように思う。芸能人だけでなく、有名人に対しても。

かつては、たとえば「五木ひろし」とか「美空ひばり」とか呼び捨てで呼ぶ人が多かった。

今だと、たとえば「将棋の羽生さん」とか「スケートの羽生君」など。

なぜなんでしょう。

 

2019-03-01

苦しみとは

人生うまくいっていると思っている時はほとんど考えないでしょう。イヤなことあれば何か考えるでしょう。悩むということは考えるということです。

たとえば、人間関係でイヤなことがあれば、あいつは何て奴なんだ、あの人は一体どんな人なんだ、私が悪いのだろうか、私はどんな立場なのかというように考えるでしょう。そこから深く悩めば、私って何?人生って何だろう。なんで生きてるの?といったように、マイナスな事があった時に人は考える。考えるというより、考えさせられる、といったほうが正確だろう。

今日は一日何もなくてよかった、と思うような日は何も考えなかった一日といえるのかもしれない。

苦しみなんてないほうがいいと思うのだけれども。苦しみからは逃れたいのだけれども。いろんな自分への苦しみが人生を深くする。

2018-02-23

一日

朝、目覚め、「さて起きるか」から始まり、歯みがき、洗面、朝食を習慣どおりにこなし、午前中に行うことをして昼食をとり、昼への行動へと移る。いつの間にか夕方になり夜を迎える。夕飯を食べて、何かをしていると、いつの間にか寝る時間。また今日もこんな一日だった。そして寝る。

何もないということは良いことだ、平凡な毎日さえおくれることができれば幸せだ、とはとても思えない。いつの間にかこんなに月日がたっていたという感覚は、このままでいいのかという不安にかられる。今まで自分は何をしてきたのか。何のため生きてきて、これからなぜ生きていくのか、そんな根本的疑問がわいてきたときに仏は歩み寄ってきます。

2018-02-02

クライマックス

例えば、楽しい一泊旅行に行く前はウキウキします。旅行に行っている時より嬉しいくらいです。

いざ旅行の日になればあっという間に時間は過ぎます。

出発し、どこか観光地に行き、さて宿に着いた、お風呂だ、夕食だといっていたら、いつの間にか、もうこんな時間かそろそろ寝ようと。そして朝、目が覚めれば、楽しい旅行ももう終わりか、明日からはまた普段の生活だという思いが頭をよぎる。明日からはまた節約しなきゃ、と。朝食を食べて宿を出たら時間がたつのは早い。すぐに昼食の時間。どこか観光地に行って帰路につくころ、今夜のご飯をどうしようと考える、という感じでしょうか。

旅行に行ったという満足感があっても、帰宅後、一晩寝れば薄れます。疲労感のほうが残るかもしれません。

そうやって考えると、何か旅行全体を楽しんでいるような気がしないのです。

子どものころ、「もういくつ寝るとお正月」といっている頃はウキウキしていましたが、元日も昼を過ぎた頃から急激に冷めていきました。新年なんていう真新しさも急速に色あせる。「いつまで正月気分でいるんだ?正月ボケか」という言葉をよく聞いたが、正月ボケになる前に正月なんて終わっている。

旅行にしろ、正月にしろ、なぜかその当日を一番に楽しめていないのです。むしろ前日のほうがイキイキしている。クライマックスが前日というのもおかしな話ですが。

旅行や正月だけではありません。自分にとって楽しいことを本当に味わえているかということです。さらに楽しいことだけではなく、当日、当日を味わえているか。一年後とか明日とかではなく、【今】に足をつけて生きているかということが問われてきます。【今】に足がつけば、毎日がクライマックスになります。

2018-01-01

なつかしさ

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門徒さんと話をしていると昔の話が圧倒的に多いことに気づく。
年輩の門徒さんがまだ娘さんだった頃の話、または戦争中の話、昔の稲葉地の話。どれも50年はたっていることを数年前のことのように話す感じか。
私も40代後半になりようやくその気持ちが少しだけわかるようになってきた。
もうとても若いとは言われない年齢となり、若いということがどんなことなのかが少し見えてきた。
無鉄砲、感受性も豊か、再生力もあり、頭脳も明晰、純粋。若いなりに悩みもあるに決まっているが。今のようなドロッと重い悩みではない。歳をへればへるほど何とも空虚な悩みも加わる。加齢とともにそれらの悩みや空虚さで幸せがあせてみえる。
歳をとって家を引っ越しすると頭が環境についていけずに認知症になりやすいというが、若い時には環境の変化もまた「新しい変化」としてワクワクして受け入れることもできた。
そんな感動も歳とともになくなり、感動をしていた若い頃をなつかしむのが関の山。これが「老」の苦しみの表れだと思う。
もう誰もが若い頃のように感動することは二度とはないであろう。
しかし死ぬまでは昔の若き日をなつかしみながら生きていかなければならない。寿命が長くなるというのはその時間が長くなるということともいえる。
ノスタルジーと言われるが、そんなものにすがって生きるしかないというのも、これからの自分は何なんだということになる。

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2017-01-26

僧侶

私の思い描いている僧侶とは、
よく見聞きし冷静な人、人間関係もしっかりとし、仏道を歩む者として常に自覚のある人、そして誠実そうにみえる人だ。
しかし、私自身はそれに当てはまらないので本当に向いてないと思う瞬間がたびたびやってくる。その都度それをどうごまかしたらいいのかと考えるのだが、それでは解決にならないとわかるとまた恐ろしいほどの虚しさに襲われる。
親鸞のいう愚禿という重く深い自覚ではなく、軽いチャラチャラとした感覚なので話にならない。
僧侶の格好をしているだけ、それをし続けるというのもそんなにいいものではない。
「どんな仕事でも大変だ」という言葉で片付ければ簡単なんだが、それではもっと浅い。自分は何をしているのか?何のために?
いろんなお坊さんと交流するのだが、皆、何をするために僧侶になっているのかの理由探しをしているのだろうか。もちろん、食べていくためにこうするああするということもあるだろう。
僧侶というのは真面目に生活していれば普通に済んでいくものかと考えてしまう。抑圧みたいなものに耐えられなくなり全国ところどころでいろんな事件を起こすんだろうな、僧侶が。
周りのことに振り回されず、生きていくというのはどんなことなのかを、より真剣に考えるのが僧侶として大切なのかと。

2017-01-26

青い鳥

我々、すべての人間は幸せを求め生きている。
『青い鳥』という童話があります。
青い鳥という幸せを探しにでかける主人公たち。
過去の世界に行き青い鳥を探しに行くが本物ではなく、未来の世界に探しに行くが、またしても本物の青い鳥ではなかった。
結局、青い鳥はどこにいたのか。
青い鳥は自分たちの部屋の鳥かごの中にいたという話。
過去でもなく、未来にでもない、今、この現実に青い鳥はいたという話。
過去にばかりとらわれ「昔はよかった」という生き方
「そのうち幸せになれる」という未来に幸せを期待する生き方
実は今すでに幸せの中にいるのである。
已 能 雖 破 無 明 闇
すでに無明の闇は破られている

2015-07-06